
病気、障害、怪我などなど、生活のあらゆる場面でリハビリが必要なのに、その時間は「つらくて、退屈で、続かないもの」として語られることが多い。
そんな常識を、デジタルの力で書き換えようとしているのが、株式会社デジリハ 代表取締役の岡 勇樹氏だ。子どもから高齢者まで、障害の有無に関わらず「楽しいから動きたくなる」体験をつくり、その動きをデータとして蓄積し、未来の選択肢を広げていく、そんなリハビリ・プラットフォームを実装している。
3歳から11歳までアメリカで育ち、帰国後の文化ギャップを感じていたが、音楽とクラブカルチャーに救われた青少年時代。母のがん、祖父の認知症を通じて、医療・福祉の世界に徐々に引き寄せられていく。NPO活動、音楽フェスでのキッズゾーン運営、そして伝説的パンクバンドのフェスから生まれた「デジリハ」の原点──。
岡氏のこれまでの歩みと、デジリハが作ろうとしている医療・福祉・介護・教育の未来についてお伺いした。

代表取締役
岡 勇樹氏
1981年に東京で生まれ、幼少期の8年間を米国のサンフランシスコで過ごし帰国。医療福祉関連の現場職員を経てNPO法人を設立しその後15年間経営。現在はデジタルリハビリツールの開発を行うスタートアップを経営。日本のみならずインド、アメリカの医療機関や福祉施設でも展開。

株式会社デジリハ
https://www.digireha.com/
リハビリや療育・介護現場で活用するリハビリツール「デジリハ」の開発・普及を通して、障害児者・高齢者のモチベーション向上、業務の効率化を図る
- 目次 -
アメリカで育った少年が、日本で感じた“カルチャーのギャップ”
── まず、幼少期のことからお伺いさせてください。
もともと3歳でアメリカに引っ越して、11歳までアメリカで暮らしていたんです。
日本の小学校に通ったのは、小学6年生の1年間だけ。ここがまず、ちょっと変わった生い立ちかなと思います。アメリカでは、本当に「ピザばっかり食べて、ヒップホップを聞いている少年」でした。小学生みんなが普通にヒップホップを聞いていて、それが共通言語みたいな感覚だったんですよね。
── 帰国後は、どんな変化があったのでしょうか。
日本に帰ってきたら、同級生はほとんどJ-POPしか聞いていない。「なんで誰もヒップホップ聞いてないんだろう?」っていう違和感から始まって、文化のギャップもあって、うまくなじめなかったんです。
正直、中学くらいまでは、個人的には「暗い時代」でした。
ただ、その中で自分を支えてくれたのが音楽であり、ライブハウスやクラブの存在でした。
自分が好きな音楽を聞き続けることが、自分のアイデンティティそのものだったんだと思います。「自分の好きじゃないものに染まっていく」のがすごく嫌で、好きな音楽を掘っていくうちに、ちょっと変わった人たちが集まるコミュニティ、ハードコアパンクやクラブシーンに出会っていきました。
「こっちの世界の方が楽しいな」と思えたのは、その人たちと出会ってからですね。
路上セッションから百人規模のイベントへ──“自由さ”が人を惹きつけた

── 音楽との関わりは、その後どう広がっていったのでしょうか。
大学生になると、仲間たちと一緒に路上でセッションをするようになりました。
最初は本当に数人で集まって楽器を鳴らして遊んでいるだけだったんですが、気がつけば人が集まってくる。音楽って、やっぱり人を惹きつける力があるんですよね。
そこから少しずつ自分たちでイベントを企画するようになり、最終的には百人規模のイベントまで広がっていきました。といっても、特別なことをしていたわけじゃなくて、「自由にやろうぜ」という空気感があっただけなんです。
── どんなところに、人が集まってきた理由があったと思いますか?
みんな、何か“居場所”を探していたんだと思います。
学校のコミュニティが合わない、家でもない、でもどこかに“自分でいられる場所”がほしい。そういう人が自然と集まってきたんでしょうね。
僕自身もそうでしたし、あの頃の仲間も同じだったと思います。
誰かが偉いわけでも、ルールがあるわけでもなく、ただ音を鳴らすことが楽しい。そういう“自由さ”があったからこそ、イベントが大きくなっていったんじゃないかと感じています。
母のがん、祖父の認知症──音楽がつないだ、医療・福祉への道
── 医療や福祉の分野に関心を持つようになった背景には、どんな出来事があったのでしょうか。
大学生の頃、母親ががんを患ったことが大きな転機になりました。当時はまだ音楽とイベントにのめり込み、毎日が刺激的で、将来のことも深く考えていませんでした。母が病気になり、その病院の近くに引っ越すことになりました。そのタイミングでイベントもやめました。母親のお見舞いに行く度に今まで聞けなかった話し、話せなかったことを話せたのですが、なんというか、後悔しかないという気持ちになってしまい、正直ほとんど記憶がないまま、大学を卒業してしまいました。就職も、アルバイトをしていた職場にそのまま入社する形でした。
社会人になってからも、時折、母が残した手帳を見返しては涙することがあり、気持ちの整理がつかないまま長い時間が過ぎていきました。
そんな時に、今度は祖父が認知症になってしまい、お見舞いに行くようになりました。
日々できないことが増えていく祖父の姿を見ながら、「家族が弱っていく」という現実に再び向き合うことになりました。
── 祖父の変化を見て、どのような思いを持つようになったのでしょうか。
祖父のお見舞いに通う中で、病院の対応にいろんな疑問が湧いてくるようになりました。
祖父の認知症は進行をしていき、全然僕のこともわからないという状態になってしまったんです。
しかし、好きな音楽を流すと、その瞬間だけ焦点が戻ったように表情が変わり、僕のことを思い出したような素振りを見せることがありました。印象的で、「認知症、音楽」と検索した際に“音楽療法”というものがあると知り、サラリーマンを辞めて音楽療法の専門学校に入学することを決めました。
結果的に、祖父に音楽療法を何か施す前に祖父は亡くなってしまいましたが、あの一連の出来事が自分の進む道を大きく変えるターニングポイントになっていると思います。
離島の入所施設で受けた衝撃──“この現実を知らないままではいられない”
── 音楽療法の専門学校に入ってから、どんな活動をされていたのでしょうか。
音楽療法の学生として、介護施設や障害者施設へ“慰問演奏”に行く機会がありました。
普通はピアノやバイオリン、合唱のようなスタイルが多いのですが、僕はヒップホップやハードコア、テクノがルーツなので、勝手にバンド編成やセッション形式でやりはじめたんです。先生の指導そっちのけで(笑)。ただ、その自由さが逆に評価され、応援してくれる先生も増えていきました。
ある時、学校の先生から「離島の施設に慰問演奏に行ってみないか」と誘われました。船で渡るような東京の離島にある入所施設で、5人の仲間と一緒に訪れました。
演奏自体はとても喜んでもらえたのですが、そこで聞いた施設の実態に強い衝撃を受けました。その島で生まれた人たちではなく、都内の各地から“連れてこられた”障害のある方々が暮らしていて、基本的には島を出ることができない。見舞いもほとんど来ない。
事実上、人生の大半をそこで過ごすことになる。
── 離島施設の慰問演奏後に何かアクションを起こされたのですか?
都内に戻ってきた翌日、僕はすぐに動きました。
まずは、同じ志を持つ仲間20人ほどを集めて、島で見たことと感じたことをすべて共有しました。そして、施設に皆が遊びにいきたくなる音楽フェスを実施したい旨を話しました。
みんなで船に乗って島を訪れ、入所者の方々と音楽でつながり、直接出会う機会をつくる。
そんな構想を本気で形にしようとしていました。
船舶会社と話をしたり、船のチャーターについて相談したり、実現可能性を探り続けましたが、嵐のリスクなどから「規模的に難しい」という結論に至り、計画は泣く泣く断念しました。そこで方向転換し、まずは東京でできる形として、学校の地下ライブハウスで障害児・者と地域の子どもたちをつなぐイベントを企画しました。
そして迎えたイベント当日、準備を重ねてきたその日の朝、祖父が亡くなってしまったんです。僕は代表として会場に行けず、仲間たちに「全部任せた」と託すしかありませんでした。
葬儀を終えて会場に向かうと、イベントは見事に成立していました。
参加者が集まり、演奏が鳴り、ちゃんと空間として成立していた。その光景を見た瞬間に思ったんです。「これを続けなきゃいけない。組織として形にしよう」
こうして、後の NPO法人Ubdobe(ウブドベ) につながっていきます。
デジタルアートとの出会い──Hi-STANDARDがつないだ“デジリハ”誕生の原点

── Ubdobeを立ち上げた後、どのような活動を展開していったのでしょうか。
Ubdobeの活動を始めた当初は、医療福祉をテーマにしたクラブイベントの企画や、行政機関から受託する事業など、幅広く取り組んでいました。その中で特徴的だったのが、フェスに「キッズゾーン」を設置する取り組みです。親子が安心して過ごせるスペースをつくり、ワークショップを実施する──そんな活動が口コミで広がり、全国の多くのフェスから声がかかるようになっていきました。
そんな流れの中で、転機になったのが Hi-STANDARD の存在です。
僕自身、学生時代からずっとHi-STANDARDのファンでした。
彼らが主催する伝説的なフェス「AIR JAM」が約10年ぶりに復活するというニュースが出た瞬間、思わずウェブサイトから連絡を入れたんです。
すると、メールを送ってからわずか3分後に電話がかかってきて、「面白いことやってるね。事務所来れますか?」と言われ、翌日には事務所へ伺うことになりました。
そこから話がトントン拍子に進んでいったんです。
その後、関東や東北でのAIR JAMのキッズゾーン運営を経て、2016年の福岡開催の打ち合わせの中で、Hi-STANDARD側から「デジタルアートとかできないの?」と提案されました。
当時の仲間にデジタルアートやLEDシステムを組める友人がいたため、すぐに声をかけてチームを結成。フェス内にデジタルアート空間をつくり上げ、最終的には 約2,000組の親子が訪れる 大きなコンテンツになりました。
しかし僕の中では、「フェスの1コンテンツ」で終わらせたくありませんでした。
「このデジタルアートの体験、医療や福祉の現場でも役に立つんじゃないか?」
そう感じたことが、後に “デジリハ”の原点 となっていきます。
<当時のフェス内で実施したDIGITAL SPACE TOWNの風景>
デジリハが提供する価値──アプリ×センサー×データで“動きたくなる”リハビリを
<デジリハ サービス動画>
── 実際に提供されているサービスやソリューションについて教えてください。
デジリハは、大きく「アプリ」「センサー」「データベース」の3つで構成されています。アプリは全て理学療法士などのリハビリ専門職によって監修され、障害のある子どもたちや高齢者の方が“思わず動きたくなる”ように設計されたコンテンツになっていて、画面の中の世界と自分の身体の動きがしっかりリンクするようになっています。
その動きを検知するのがセンサーです。体や手足の動きに応じて、音や映像が変化したり、ゲームが進んだりする。リハビリでありながら、本人にとっては「遊び」や「体験」に近い感覚で取り組めるのが特徴です。
さらに、センサーデータとアプリのプレイデータはすべてデータベースに蓄積され、ダッシュボード上で可視化されます。事前・事後の変化や、本人のコンディションの推移が見える化されることで、支援者側も「どこが伸びているのか」「どんな刺激に反応しているのか」を客観的に把握できるようになっています。
── 事業を立ち上げ、拡大していく中では、どのような壁がありましたか。
資金の壁も、組織の壁も、プロダクトの壁も、正直ひと通りありましたし、今もあります。
最初の頃は、そもそもVCに入ってもらうこと自体にかなり懐疑的だったんです。どこか「外部資本=コントロールされるもの」というイメージがあって、VCを信用していない部分がありました。実際、立ち上げ初期は融資だけで1年間回していて、キャッシュフロー的にもかなり苦しい状況が続いていました。
そんな考えが変わったきっかけが、とある投資家・起業家の方との対話です。VCって正直よくわかっていなくて、「何なんですか?」と率直に聞いたら、「VCって、同じ沈みそうな船に乗る“乗組員”なんですよね」と言われて。会社が船で、社員が乗組員だと思っていたけれど、VCもその船に一緒に乗る存在なんだと。そのうえで、「乗組員って、自分で選びますよね?」と言われたんです。その一言で、「あ、選んでいいんだ」とスッと腑に落ちました。
── 価値観が変わってから、どのようにパートナーとなるVCを選んでいったのでしょうか。
もう一人、価値観を揺さぶってくれた投資家の方がいて。「VCって何なんですか?」と聞いたときに、「雪山で遭難したとき、一晩同じ寝袋で体温を分け合える相手」と表現されたんです。海と山でまったく違う比喩なんですけど、どちらも「命を預けられる相手」というところが共通していて、その感覚だったら自分で選べるな、と。
そのうえで、初めて「この人に出資してほしい」と思えたのが、taliki(https://www.taliki.co.jp/)の中村 多伽さんでした。京都で初めてお会いしたときも、お金の話ではなく、「こんな世界にしていきたい」という話だけを1時間くらいして、「じゃあまた」と解散したんです。
帰り道にふと、「あの人には乗組員になってほしいな」と思いました。数日後にこちらから「出資してもらいたいと思っているんですけど、どうですか?」と連絡したら、「私もそう思っていました」と言ってもらえた。社会課題をビジネスで解く、ソーシャルビジネス/ソーシャルアントレプレナーシップという価値観が合致した瞬間だったと思います。
── 組織づくりや権限移譲の面では、どのような課題がありましたか。
自分は、人を「教育する」ということが本当に苦手なんです。
そもそも自分自身が、いわゆる“先生から何かを教わる”という教育スタイルをずっと拒否してきたタイプなので、その逆をやるのがすごく苦しくて。だから、「やりたいなら、自分で入ってきて、自分で勝手にやってほしい。ベクトルさえ大きく間違ってなければOK」というマインドでやっていました。
それだと、コアメンバーはちゃんと立ち上がってくるんですけど、その次に入ってくるメンバーにとっては難しい。マニュアルもフローも整っていないので、「再現性のある組織づくり」という意味では、当時は課題だらけでしたし、今もその真っ只中です。。
今は、僕を含めて3名のマネジメント体制になっています。COOとCAOは、NPO時代から一緒にやってきた仲間で、もう7〜8年近い付き合いです。それくらい長い関係性ではあったのですが、役員になってもらったのは本当にここ最近の話で、「今だ」というタイミングまでは、あえて役職も権限も付けずにいました。
「今だ」と思った瞬間に、「明日からCOOとしてトップでやってください」とお願いして、そこから徐々に権限移譲を進めていきました。今では、社員からの質問は僕には一切来ません。全部、CAOかCOOが受けてコントロールしてくれていて、僕は資金調達と全体の経営だけに集中するようにしています。
── 権限を任せようと決めた決定的なきっかけはあったのでしょうか。
あります。感覚的には「負けた」と思った瞬間ですね。
あるとき、大きめのVCとの重要な協議があって、かなり本質的な質問を投げられたんです。その質問に対して、「やばい、これ俺、ちゃんと答えられないかも」と思った瞬間に、COOがすっと前に出て、的確に答えてくれた。
そのときに、「あ、もうこの領域は自分よりこの人の方が上だな」と素直に感じられたんです。会社の成長や事業のスピードを考えると、自分が引っ張るより、このメンバーに任せたほうが絶対にいい。そう思えたタイミングで、一気に任せるようにしました。

── 強固な経営体制をつくったうえで、どのような未来を描いているのでしょうか。
どんな世界をつくりたいか、という意味では、特別な世界をつくろうとしている感覚はあまりなくて、「障害のある人が普通に楽しく、自由に生きていける世界」をつくりたいと思っています。
たとえば、難病になったり、脳梗塞になったり、何かしらの疾患を抱えたとしても、それまでと同じように生活が維持できる、むしろ「前より楽しい」と言えるような世界。健常者から見ると何もスペシャルではないけれど、障害児者や難病の当事者からすると、それがものすごく“スペシャルな普通”になる。
そのためには、リハビリを楽しくするだけでは足りません。
仕事ができること、お金が得られること、保険に入れること、旅行に行けること、そういった「生活のインフラ」にちゃんとアクセスできるようにする必要があります。障害児者や難病児って、そもそも保険にすら入れなかったりするので。
そこで鍵になるのが「データ活用」だと思っています。
障害児者のデータを集めて、統合して、適切な形に変換し、金融・保険・旅行・雇用など各種サービスに接続していくことで、その人たちがより自由な生活を送れるようにしたい。デジリハはあくまで第1フェーズで、その先に「データのインフラ化」という構想があります。
いまはBtoBが中心ですが、これからBtoCにも広げていきたいですし、遠隔リハビリのシステムをグローバル、各国政府に提供していくような展開も視野に入れています。リハビリ人口って、実はものすごく多くて世界の30%くらいの人が必要としているので、ビジネスチャンスも社会的インパクトも、まだまだこれから広げていけると思っています。
── 今このタイミングで、御社に参画する魅力はどんなところにあると思いますか。
一言でいうと、「自由さ」と「伸びしろ」ですね。
うちは本当に自由で、やりたいことがあったら「じゃあやってみようよ」というスタンスです。営業で入ったメンバーでも、「ちょっとうまくいかないな」「本当はこういうことがやりたい」となれば、「じゃあそっち移っちゃいなよ」と配置転換をして最適なポジションを一緒に探していきます。
自由が先にあって、その上で自分のプロフェッショナル性を最大限に活かす、という働き方が理想だと思っているので、営業でも開発でも研究でも、自分の特性をガンガン活かしたい人にはすごく合う環境だと思います。
まだメンバーは20数名の会社なので、フェーズとしては、ほぼスターティングメンバー+αくらいのタイミングです。「苦しいだけの創業期」は少し抜けて、これから本格的に戦略を描いていくフェーズに入ったところ。ここから先のスケールに関わりたい人にとっては、一番おもしろいタイミングなんじゃないかなと思います。
もちろん、マニュアルが完璧に整っているような会社ではないので、自分で仕事をつくっていくタイプの人に来てもらいたいですね。
── 最後に、スタートアップにチャレンジしたいと考えている方にメッセージをお願いします。
僕が一番いいと思っているのは、「スタートアップで経験を積んで、いずれ自分でスタートアップを起こす」っていうキャリアです。
もちろん、IPOを目指すとか、ストックオプションでリターンを得るとか、そういった側面もスタートアップの醍醐味としてあると思います。ただ、それ以上に、「自分で何かを始めるための修行期間」としてスタートアップに飛び込むのが、一番楽しいし、一番有益なんじゃないかなと。
いつか自分で起業したい、そのために今、誰かのスタートアップで修行させてもらう──。
そんなマインドで来てもらえたら、きっとお互いにとって良い関係になれると思っています。

株式会社デジリハ
https://www.digireha.com/
リハビリや療育・介護現場で活用するリハビリツール「デジリハ」の開発・普及を通して、障害児者・高齢者のモチベーション向上、業務の効率化を図る
